Vol.3
3 May 1996

モラルかエコノミックスか

 以前プロジェクトのスタッフが車輌を無断に使用したりする、という話をしました。その時には日本とアフリカの社会では、モラルの及ぶ範囲に違いがあるのではないか、と書きました。今回は同じ事を題材に、また別の角度から話をしてみたいと思います。

 日本では「遊ばせておくのはもったいない」という考え方があります。すなわち遊ばせておく代りに何とか利用すれば、その分利益になる、という理屈で、経済学では機会費用 (opportunity cost) と呼ばれる概念にあたると思います。(ただしこれは特に個人や営利団体の場合に当てはまる事で、役所が管理する公用物などの場合には、全く違う論理が働いているのはご存知の通りです。)

 では「遊ばせておいて損をする」のは誰でしょうか?無論遊んでいるものの所有者(あるいは遊んでいる人の雇用主)です。ではアフリカではどうでしょうか?どうも「遊ばせておくのはもったいない」という感覚が薄いように思えます。言い換えると日本人は「遊んでいるもの」にも潜在的な価値があると考え、アフリカでは「遊んでいるもの」には価値が無い、と考えているようです。

 これは「なぜ遊んでいるか」という問題もあるわけですが、物理的に貧しいアフリカでは、遊ばせようと思って遊ばせているわけでなく、利用する余裕が無いのが真相のようです。例えば「遊んでいる土地」があったとしましょう。なぜか?例えば耕すだけの労働力が得られないからです。

 「では人に貸せばいい」、全くそのとおりで、日本人ならそう考えるし、伝統的に地主・小作関係のある文化圏でもそうでしょう。しかしアフリカは伝統的に比較的平等な社会でした。耕せるだけの土地が個人の所有で、その他はコミュニティー全体のものでした。そうすると何が起こるか?

 自分が使っていない、あるいは使えない「遊んでいるもの」を他人が使う事に寛容になるのです。なぜなら自分ではそこから価値を生み出せないのですから。すなわち「遊んでいるもの」の機会費用は彼らにとって低いわけです。「あんたにとって価値が無いなら私が使おう」「ああ構わないよ」というのが、どうもアフリカでの論理のようです。

 プロジェクトのスタッフが車輌を私用に使うのも、我が家のメイドさんが自分の家で使う氷を僕の冷蔵庫で作っているのも、同じ理屈です。四六時中使われているわけでないプロジェクト車輌を、空いている時に使って何が悪い?その時間プロジェクトにとって車輌は何の価値も無いじゃないか。冷蔵庫で氷を作って何が悪い?その隙間はあんたにとって価値が無い(つまり入れるものが無い!)じゃないか。

 お互いがこの寛容な価値観で通るアフリカ人同士なら摩擦も起きません。しかし日本人は個人や民間のものなら、たとえ遊んでいてもそこには「価値を生み出す潜在性」があると考えるし、公共のものならそれがたとえ有効利用されていなくても、私用に用いるのは「モラルの上で問題がある」と考えるわけです。

 僕はメイドさんが氷を作るくらいは全然構いません。しかしプロジェクトの車輌の場合はどうでしょうか?「モラル」を主張するだけでは解決できない、意外に難しい文化摩擦問題をはらんでいると言わざるを得ません。

 この話は拙著「開発フィールドワーカー」に収録しています。

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