Vol. 2
25 March 1996

啓蒙といふこと

 林業プロジェクトで働いていると、住民に対し木の重要性を啓蒙する、という言い方をよく耳にします。でも僕はこれに疑問を持っています。啓蒙という言葉自体対象は無知蒙昧といったニュアンスがあり(広辞苑では「無知蒙昧(もうまい)な状態を啓発して教え導くこと」となっている)、「一体お前は何様だ?」と言いたくなるほど嫌いな言葉ですが、これから書くのはそういったことではありません。

 林業プロジェクトや行政、そして時にはNGOまでもが「啓蒙する必要がある」と考える一番の原因は、地域住民は木の重要性を理解しておらず、従って木を切るばかりで植えようとしない、と考えていることにあります。しかし確かに住民が木の重要性を知らないことを確認した上で「啓蒙しなきゃ」と言っているのでしょうか?どうもそうは思えません。

 住民が無知であるというのは、実はプロジェクトを企画する側の仮説にすぎません。そして多くの場合この仮説は確認されないままあたかも事実とされ、啓蒙の必要性が説かれることになります。無論この仮説が事実ならこの文章はここで終わりですが、そうじゃないというのが僕の経験からの結論です。また資料を読んでも、啓蒙活動が成功して住民が木を植えはじめた例など見たことがありません。

 例えば僕が以前住んでいたネパールの山の村です。住民は森へ出かけ、家畜の飼料になる木の葉や草を集めます。家畜の糞は木の葉と混ぜられ唯一の肥料となります。水田を潤す水があるのも森があればこそです。炊事用の燃料はもちろん森から採ってくる薪です。つまり住民生活のほとんどの部分は森に関わっているわけです。その森が減ってしまって困っているのも住民です。他の途上国でも同様で、タンザニアの乾燥地でも森がサバンナに変わるだけで、事情は似たり寄ったりです。

 さて森に依存している住民は木の大切さを知らないのでしょうか?むしろ知っていても何らかの理由で森を守ったり、木を植えたりすることができずにいる、と考える方があたっているのではないでしょうか?だとしたらその原因を探って対策を取らず、いたずらに不要な啓蒙を行うのは全くの無駄になります。

 翻って多くの日本人の生活を考えてみましょう。森は重要だ。木を植えなくてはならないと、誰もが知っています。ではどうやって知ったのでしょうか?我々は薪を使いません。牛も飼いません。水は水道から出て来ます。木のないコンクリートの中で平気で生きています。

 我々が木の重要性を認識したのは、教えられ、あるいはそれこそ啓蒙されたからに他なりません。つまりは我々が教えられないとわからないから、彼らも教えないとわからない、と無意識に考えているのだと思います。毎日森とともに暮らしている人達に、森のない所の人達がその大切さを啓蒙しようなどというのは、全く釈迦に説法と言わざるを得ません。

 ただし住民が木を植えるのを知らないことは有り得ます。我々はカラスを見ても食べ物だとは思いません。これと同様に、伝統的に木を「植え物」だと認識しない社会は存在し、最近までマサイ族がそうでした。木は神様が植えるもので、人間にも植えることができるとは知らなかったのだそうです。

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