Vol.18
15 March 1998

奉加帳

 最近の日本では、破綻しそうな金融機関を助けるために、他の金融機関に大蔵省が拠出を行なうよう指導することを「奉賀帖をまわす」と呼ぶようですが、タンザニアでも「奉賀帖」のようなものがまわって来ることがたびたびあります。

 比較的良心的なものとしては、学校建設や、手術のための募金、などがあげられるでしょうか。僕の自宅にもある日曜の午後、二人連れの女性が訪れました。彼女らは重病でタンザニアでは手術できない学校の先生を、インドの病院へ入院させるための旅費などの費用を捻出するため、募金活動をしている、と言いました。

 かなり怪しげな話もありますから、近所のことを良く知るジョセフに確認したところ、「その話は知ってる。」とのことだったので信用しても良いと思い、いくらかの寄付をしました。お金持ちである日本人がいくらかのドネーションをするのは、タンザニアの田舎で社会生活を営むためにも必要なことです。

 さてでは人の良いお金持ち日本人である僕がいつもお金を出すかと言うと、必ずしもそうでもありません。その一つは教会建設のための寄付でした。タンザニアにはキリスト教も物凄い数の宗派が入っていますし、それ以外の宗教もあります。また学校や病院その他、公共の福祉のために必要な施設の整備も遅れています。その中で信者でもない僕が特定の教会に対する寄付をする、というのはどうも納得が行きません。

 この話を持ってきたのは僕の仕事の相棒である、マクパ氏でしたが、僕が理由を述べて断ると、良きサマリア人の喩を出して「お金を出すべきだ」と主張します。「サマリア人は盗賊に襲われて困っている人を助けたのであって、建築物にお金を出すのとは違う」と答えましたが、納得していない様子でした。

 もう一つ断った例は、キリマンジャロ州の森林官が州政府の中古車の払い下げを受け、その支払いのためのお金集めをした時です。タンザニア人スタッフなどは、多分互助的な意味もあって(つまり自分がお金を必要とする時に期待できる)いくらかずつ出していましたが、僕には個人の車を買うのにどうして僕がお金を出さなくてはいけないのか到底納得できません。

 さすがに本人も虫の好すぎる話だと自覚していたようで、僕が「これは僕の方針に反するから出さない」と断ると、そのまま納得して引き下がりました。

 でも僕がどうしても理解できなかったのは、普段貧しい村の人が売っている野菜などを値切り倒して10円20円をまけさせている、とある日本人スタッフが、ぽんと数千円も出していることでした。僕は逆に道端で売っている人などには値切りません。甘ちゃんの外国人が一人、売り手の言い値で買ったところで、物価には影響しませんから。

 ダルエスサラームでは面白い?話を聞きました。外交官などが多く住む地区で、ある時「警察の派出所を作るから寄付をしてくれないか?」という男が一軒一軒を訪ねて来たそうです。この地域に住んでいて男の訪問を受けた日本大使館の領事さんは警察とコンタクトがあり、「これはおかしい」と電話で確認してみたところ、警察の方からは「そんな話はない」とのこと。嘘がばれた男は言葉を濁してその場を立ち去ったそうです。

 ところがこの話には後日談があり、多分同じ男が、今度は「派出所が完成した。オープニングの式典のパーティーを行なうための資金が要るので援助して欲しい。」と言ってあちこちをまわっていたそうです。うっかりお金を出してしまった日本企業の方が、パーティーが行われているはずの場所に、行われているはずの日時に様子を見に行ってみると、無論そこには何もありませんでしたとさ。

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