Vol. 1
5 February 1996

盗まれたカレンダー

 日本から持って来たカレンダーが盗まれました。仕事場の机の上に置いてありましたが、住む家を探す為に2、3日留守にしていた間のことでした。ここで腹を立てるのは途上国の初心者、僕は自分のうっかりを反省しました。机の上にここでは貴重な(それもできのいい日本製)カレンダーを放置すれば、持って行けと言ったも同然です。犯人はプロジェクトのスタッフの一人に間違いありませんが、つまらない詮索をするつもりもありません。

 プロジェクトでは他にも車輌の無断使用や、オレンジの優良品種の苗木が紛失するなど、小さな事件は絶えません。日本的道徳からすれば許されないこうした行為は、プロジェクトに限らずタンザニアでは日常茶飯事、むしろ一般的なことです。よほど大損害を与えるとか、押し込み強盗でもしない限り、やっている本人達に犯罪と言った感覚はありません。

 こうしたことが起こる原因の一つはもちろんタンザニア人の相対的な貧しさでしょう。例えば公務員の給料は良くて一万円程度ですから、給料だけでは生活できないのが実態です。そうした彼らが自分のお金ででカレンダーを買うはずもなく、カレンダーをただでくれる企業と取引きがあるわけもなく、ましてや自前の車を持てるはずもありません。今まで僕が暮らしたホンジュラスやネパールやケニアでも同様の問題がありました。しかし貧しさはどうも二次的な理由であるような気がします。

 ケニアにいた時、公金を横領したカウンターパートがいましたが、彼も地元に帰れば社会的な義務を果たす立派な人でした。つまりこれはどうやら社会の単位の問題であるようです。アフリカ古来の部族や大家族制の中では、明文化されていなくてもその社会のメンバーが果たす役割、あるいはすれば村八分になることが決められているはずです。日本のちょっと昔や、今でも農山村部を想像すればわかると思います。

 多くの日本人にとっては国というものまでがその延長にあり、例えば会社や役所や国や学校は、帰属意識を伴う社会の単位です(宗教団体も?)。これに対し多くの途上国では帰属意識は伝統的な小さな単位に留まり、国やその他の現代の組織は、人工的な、社会的義務を負わない単位として認識されているのではないでしょうか。

 国のものは我々多くの日本人の感覚では公共財産であり、一種の共有財産です。しかしそれは多くの日本人が国枠主義者でなくとも、国を社会単位として一種の帰属意識を持っている(持たされている?)からであり、そうした社会単位の中には実効性を伴うルールが存在します。

 一方アフリカの多くの国で部族を超える大きな社会単位ができたのは植民地化された以降、それが自分達のものとなったのはさらに遅く独立以降です。自分達が帰属しているとは感じていないのですから、ここでは国有物は誰も責任を持たなくていいもの、法律も警察もあって無いようなものですから、自由に使います。つまりブッシュに行けばいくらでもあり、見つければ拾っていい薪と同じです。

 誤解を受けたかもしれませんが、これは途上国の人に公共心が無いと言っているのではありません。公共心が及ぶ範囲の違いだと思います。ある国が公海では鯨も魚も取るのは自由だ、と主張するのと同じと言っていいでしょう。社会的に実行性のあるルールのない世界は単なる草刈り場であり、早く取った者が勝ちの、「Open Access」と呼ばれる状態になっているのだと思います。

タンザナイト copyright© Since 1996 Hitonomori Co. Ltd.